昭和四十七年八月三十日 朝の御理解
X御理解第五十八節 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
例えば、どんなに極端な悪口を言われても、腹が立たんようになるという事は、もう徳を受けた姿です。言うならば悪口を言っておる人と、言われておる人の次元が違うのです。ですからそれは丁度、子供が大人に向かって、悪口を言っておるようにしか聞こえんのです。子供が無邪気に何にも分からんなりに、大人に向かって言っておる。いわゆる大人と子供ほどしの違いがあるから、腹が立たんのです。次元の違った世界。私は信心は結局その、次元の違った世界に住む稽古だと思うです。そこを教祖は肉眼を置いて心眼を開けとおっしゃる。
人間の例えば肉眼的な眼でもってすると、それは腹の立つ事であり、又は情けない思いをする事である。けれどもそれを、心の眼をもって、見せて頂きますと、それはもう素晴らしい神様のお働き、所謂いつも申します神愛の表現だと。ですから有難うございますと。勿論腹が立たないはずです。情けないと思わないですむはずです。心の眼を開くという事はそのように素晴らしい事。心の眼を開くという事は御神徳を受けたという事です。ですからもう全然住んでおる次元が違う。
勿論その次元というものは、例えば二次元とか三次元とか四次元とかというような言葉がありますが、私は次元という事の意味はよく知りませんけれどもです。そのようにもう御神徳というのは限りなく受けてゆけるもの。ですからまず御神徳を受けた人というのはです。人が腹を立てるような顔にかかわるような事を言うてもです。全然腹が立たないという世界です。もうこれは御神徳を受けておるという証拠です。次元が違う。もう子供と大人ほどに違う。それに例えば寧ろお礼を言わんならん。
これはもう普通から言うてもです。お礼を言わねばならないような事を言われても、腹を立てる人がある。心を乱す人がある。今日はこゝに腹を立てなとありますから、腹を立てるという事で聞いて頂きましょう。御教にも腹立てば心の鏡のくもること、とおっしゃる。腹を立てるという事はね、もう心の鏡がくもる。心の鏡がくもってしまえば、おかげは映らんのです。ですからこの腹を立てるという事はね、立てないと言う事と、大変な違いが生まれてくるのです。生きたくば信心をして長生きをせよと、言うような御教がありますのもやはり、信心させてもらうと、腹が立たんようになるから、長生きをするという事なんだ。
それは、それぞれ持って生まれた運命というものがあります。生まれてすぐに死ぬる人もありゃあ、まあだ子供の間に死ぬる人もありゃあ、本当に今が花か蕾かと、いうような時に亡くなる人もあります。これは宿命、与えられた命。けれども世の中には、与えられた命をまっとうしうる氏子が少ないと、四神さまは、そんな風におっしゃっておられます。神様から八十まで生きれれる寿命を頂いとりながら、自分から命を断つような事をする。まあそういう事が他にも理由はいろいろありましょうけれども。腹を立てると言ったような事がです。自分の寿命を縮めてしまう。結果になるのでしょう。これはね、科学的な根拠がある訳なのですよ。腹を立てるという事と、心が穏やかであるという事、と心が喜びに勇んでおるというのとはね。
もうハッキリ科学的にですね、証明されておるです。信心というのは心が生き生きと喜びに溢れておるという。ただ腹を立てん穏やかというだけじゃない。これが最高です。こういう喜びは、たとえ神様から、八十迄のお命を頂いておりましても、九十迄でも百迄でも生きれるほどしのおかげになってくる。この信心の喜びというものは。これはもう命だけの事ではない。もう全ての点に、おかげが受けられる。だから信心というのは、信心の喜びが、いつも自分の心の中に、いっぱいあるようです。
と言うていつもニヤニヤニコニコと、いう訳じゃないです。けれども、ものに触れるたんびに喜びが湧いてくる。事があるたんびに、有難いというものが下から押し上げてくる。そういうものなんです。いつもこゝにたゝえられておるのです。ちょっとしたものを見ても感動する。それは心の中に喜びがいっぱいだからなのです。それが馬鹿と言われても有難いなあという事になってくるのです。それが信心の喜び。
だから私はどうでもその信心の喜びというものをです。本気で求めさせてもらわなければならない。信心の喜びというものが頂けれる為の修行ならば、私はどんな修行でも厭うてはならぬ。これは信心をさせて頂かなければ頂けない喜び、ですから。人間の体内を流れておる血そのものは変わりはないけれども、腹を立てるとその血の中に、早死にをする毒素が、自然に出来てくるという事ですよ。だから腹を立てるという事は実は、もう馬鹿らしい事、おそろしい事なんです。これはもう科学的に証明されておる事です。だからこれは科学者とか、お医者さんの世界ですから、だから最近は精神医学と言った事が言われる訳です。
ですからどうでもひとつ、腹を立てんですむ修行というような、修行を本気でさせてもらわなければならない。それはたとえ泥棒だと言われても、乞食だと言われても、という事です。先日森部の高山さんが、もう五、六年も前に、もう本当に、眼のみぎざんです。泥棒呼ばわりをされなさった事があった。相手もやっぱり他所の教会の信者で、まあ自分で自分は有名な信者だと。だから自分は嘘は言わん。こけあったっちゃから、あんたより他に取る者はおらん、と言わっしゃった。
そういう時の例えば、高山さんの心の状態というものがです。信心させて頂かなければ頂けない事です。その後において、向こうからお詫に見えるといったような、おかげになってきておりますけれども。どんなに顔にかかわるような、どんな、言うならば、悪らつな言葉をもって例えばののしられるような事があっても、子供が言うとると。思えというのでなくて、もう自分の心というものが、大人のところ迄成長しとるのですから、そんな事が気にならん。子供だからと、こう。
勿論それがもっともっと信心になってまいりますと、それを喜ばしてもらう心すらが生まれてくる。だからね、お互いが、もうちょいとした事に腹立てるというような自分であったら、本当に、信心のある人もなか人も、変わらん自分だといっちょ悟らにゃいけんです。これでは本気での、信心がなされなければならん事になる。肉眼を置いて心眼を開かせてもらうほどしの信心を頂かなければなりません。そこでこゝで思わせて頂く事はです。腹の立つような例えば、情けない思いをするような事があったり言われたり、致しましてもです。それをやはりじっと辛抱して、稽古をしていくという事が言われる訳ですね。
例えば高山さんの場合なんかは、おそらく辛抱しなさったのだろうと思う。そん時は、有難いとまでは思われなかったんだろうと思う。そういう例えば辛抱をさせて頂いておるうちにです。ちゃんと、神様が顔を洗うて下さるほどしにです。実はあれは間違いでした、こうでした、本当にすみませんでした、とその人がお詫に来るようなおかげになってくる、体験がです。段々おかげを頂いて、信心させて頂いて、お徳を受ける世界。
例えば馬鹿と言われても、アホと言われても、腹が立たんという世界が、私はお徳を受けた人の世界だとこう思う。勿論そのお徳の世界というものは、限りがないものですけれども。せめてそこ迄位は折角信心させてもらうならばおかげを頂きたい。あの人に言われた事がもう、一生忘れられん。一遍は言うて返さにゃ、というような事では、それはもうおかげにならない心です。そういう心は。
昨日は敬親会でした。私はもう、昨日初めて、あんな気分に自分自身なりましてから、はゝあこれは本当に、自分の心が少しは豊かになったんだなと思うたんです。というのはもうそれこそ、時間励行ですねえ。おばあちゃん達が集まられるのは、もちろん家で隠居さんばかりですから、言うならそれで、兎に角月に一回、合楽に集まって、同じ年寄りばかりで信心話が出来る事が。もう楽しゅうしてこたえんというような感じです。時間通りだからぴしゃーっと始められます。
私も一時の御祈念を皆さん頂かれてから、ですから一時半頃からでしたでしょうか。おかげを頂いてから、昨日はもう、聞かせて頂く役でした。今迄はもう、そげんあんたどんが話すなら、私の話は出来んじゃねえの、と言うちから、ふう悪う言よった、けど昨日ばかりはそうじゃなかった。こちらで四、五人、四、五人、もう大テーブルを囲んでですから、遠い訳ですよ。それをおばあちゃん達が、耳の遠い人がたいがいですね。それはおもしろか、漫才聞きよるごたる。その意味はいっちょん通じんで「はあーそうの」と言うちから感心しとんなさる。
本当におもしろか、耳の聞こえん者どおしの話はとてもおもしろかです。その一人一人の話がです。それでももう、本当に有難い。それは世間話であっても、世間話の中に、信心のおかげを話しよんなさる。それやら、体験談を話しよんなさる。だからこのおかげを受けて信念が強くなる。私は昨日初めて、椛目の宮崎さんが、いろいろ嫁入った自分の事を話しよんなさいますもん。その時分に、もう兎に角椛目の田中さん方と私方のばゝがもう兎に角、熱心に信心しておったという事の話。特に隣の田中の場合なんかは、もう本当に一家を挙げて、あの時分、椛目の極楽屋と言われる位でしたからね。親子三人でもう本当に、そらもう私どん、子供の時に、よくだから可愛がられた。椛目の極楽屋と言われる位おかげを受けておった。
もう本当に食べ物なんかでも、いつもそれこそ、その時期時期のわさものでなからにゃ出来んという位に贅沢されるほどしに、やはりおかげを頂いておった。特にその叔母の信心を話しとりましたが、宮崎さんの所のおばあちゃんが病気をされて、もう医者が難しいと。だから知らせる所には知らせろ、と言われた時にですね。丁度宮崎友足さんのお父さんが、四十八に入隊しておられた。当時は親が死んでも帰られなかったんですけれども。まあ何か手ずるして、兵隊に行っとる息子でも呼び寄せにゃんごと酷かった。
そういう時に私共の隣の叔母が、田中ヒロと言よりましたが、ヒロおばしゃんヒロおばしゃんと言よりましたが、そのヒロおばしゃんがお神酒を持って行ってね、もうこがれるような熱で、もう死ぬか、生きるかという境のところに、お口にお神酒を含んでから、頭にプーッと、ふっかけた。もうそれこそですね、もう本当に医者も見ておる者も、たまがるほどしに熱が下がった。だからもうヒロしゃんの御恩どん忘れちゃならん、とそのうちの姑親である、ところのおさむさんおばさんと言よりましたが、だからお家にもちゃんと、お神様をお祭りして、それはもう熱心にお参りされました。
またすぐ田中の隣に、井上さんという、今は上の方へ移っておられます。椛目一番の分限者ですが、そこの田圃に、枯れ葉になった時に、叔母がお神酒を持って行ってから、ずーっとふってまわった。御神米を他所の田にうつらんごと、と言うてから、竹の皮に包んでから、その田の四方に建てた。そして、そこで御祈念をして、お神酒をふってまわった。もうそれこそね、腰の抜けるごと誰でんたまがったと言うです。
明くる日は青うなっとったと。というような信念の強い人。私が火傷した時に、一番初めにお神酒錫のお神酒をかかえて、私にプーッとふっかけたという叔母です。その時分の話を宮崎さんからえらい、いろいろおかげを頂いたお話を聞かせて頂いて、本当に昔の人達は信念が強かったなと思うです。それが当時、椛目はもうほとんどという位、にやっぱ善導寺の金光様にお参りしましたですね。いわゆる信念、だからそういう意味での、信心とです。今日、こゝで言われる信心と、言うなら二通りあるという訳じゃないけれども。こゝのところの信心が分かっていかなければ、やはり信心の徳というものは残らない。
そういう例えば信念は強い、先生方でもそんな方があります。けれどもその、その日その日の行いとか、心の状態、というものは信心の無い者にも劣るような心の状態の人があります。しかしそれではね、所謂お徳の世界には住まわれないという事です。只おかげを頂きよるけん、お願いすりゃおかげ頂く、神様は聞いて下さるから、というような信心だけではいけないという事です。それには、例えば人が泥棒だと言うても乞食だと言うても腹を立てんですむほどしの、心が進展していかなくてはいけません。
昨日敬親会で、私は申しました。いろいろなお話を聞きながら、もう今日は私は聞き役だった。もう今日は皆さんのお話を聞いて、私自身がおかげ頂いた。だからこの喜びいっぱいの、この雰囲気を、そのまま家庭に持って帰られるだけで今日はいゝと思う、と言うて申しました事ですけれども。最後に一言そんなら、聞いて頂きましょうねと言うて、聞いて頂いたお話であります。例えば皆さんは、きのこ取りに、なばを取りに行った事がありますか。なばには中々おいしいなばと、毒なばとがある。その見分け方は、素人で一番見分ける事の出来るのは、どういうなばでも、こうやって一遍裂いて見るのだ。そうすると真っ直ぐにすーっと裂けるやつなら、まず食べてもいゝというなばである。
どんなに見事な色をしたり形をしとるきのこであっても、こうやって裂きよると、ポロッとかげるのがある。これは絶対食べちゃならん。毒がある。しかも命取りというような、毒を持ったきのこすらあるぐらいだから、要心しなければいけないがです。きのこ取りのそのきのこの見分け方を知っとるかと、私が、皆んな知っておられます、お年寄りですから。そこでです。皆さんが家庭で、情けないと思う事があったり、腹が立つと思う事があったり、歯痒い思いをなさる時にはね、あなた方はね、その毒きのこを食べとんなさるのと同じ事ですよと、言うて話ました。
嫁がこげん言うたけんもやもやした。息子がこげなこつ言うたけん情けない、という時にはです。その事をです。これは食べられるもんか、食べられないもんか、という事を、生神金光大神様と唱えさせて頂くうちに、日頃の御教が心に浮んでくる。これは有難く頂かにゃならんとこと。それだけの見分け方をしてない。いきなり食べとるけん、腹が立つたり情けなかったりするのですから、毒きのこに当てられておるようなもんだと。腹が立つというのは、咄嗟の事だから腹が立つ。日頃の信心を、そこに思わせて頂いたら、腹が立つどころか、それは有難いこと。お礼を申し上げねばならない事、に向きになったり腹を立てたりしておる、腹を立てるという事がおかげを塞ぐだけではなくて、言うなら命までも縮める毒素が自分の身体に流れておる、血の中に生まれるというような、事なのですから。
これはよくよくおかげを頂いておかなければならないという事を、こゝでは、神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよという事になるのです。しっかり信心の帯をしておる。いつも金光様という帯をしておるからです。金光様と、唱える時に、はゝあ、あげん言よんなさるが、あちらも気分の悪い時であろうとか、よくせきの事であろうとかと、相手の悪口を言うておる者の、心の上にまで思いをかけて、祈られるほどしの、心が生まれる。けれども万一そのきのこで当たった時の毒消し法も、いっちょ教えときましょうと、いう訳なんです。
まず見分け方さえ知っておれば腹は立たん。いやそれは、おいしいのである、有難いのである。見分け方を知らんから、腹が立ったり、情けなかったりするのである。けれども私共は、しっかり信心の帯をしとるごたるけれども、ずんだれとる時がありますから、腹が立ったり情けなかったりするのですけれども、その時にはだから直ぐ毒消しを、飲まにゃいけん、でないと命に触る。そんなら毒消しという事はどういう事かと言うて私が実例をもって、いろいろ話した事ですけれども。
昨日、一昨日でした。朝皆さんに、御理解を聞いてもらおうと思うて、こゝえ座って、ちょっと正面を見たところが、正面のそこが壁になっとる。大体はもうずーっと、あそこは、障子になるのですから、こう建たなければいけない。丁度襖一枚位な、今、カーテンのかかっておるところが壁になっておる。はあーおかしな事してるなあと、こゝで思うたんです。さあもう心が乱れて、だから暫くはあの朝は、私は御理解を説かれなかったでしょう。もう心というほど、デリケートなものはありません。微妙です。もう私がそれ思うたら、どうしたこつじゃろうかとこう思うたら、心の中がですね、もう乱れる訳です。
ですから所謂、話なら出来ましょうけれども、そんなら皆さんに聞いてもろうて有難いという話は生まれてまいりません。そこで咄嗟に、私の心の中に、あゝいう不調法をするという事。例えば甘木の初代が木の葉一枚、枯れ枝一本、でも押し頂く思いで、の御信心。それは、天地の大恩を悟られたから、分かられたから、そうしなければおられない事になった。自分のものとては一つもない。皆んな神様の御ものだと、思われるから、枯れ葉一枚にも押し頂く心が生まれた。だからあの大徳を受けられたんだという話をしましたでしょう。
だから最後のところには、私がそこを合楽では、御事柄と、御物という、甘木の初代の信心に対してという訳じゃないけれども。私は事情が事情で、その御事柄の大事な事を段々分かってきて、それを神様の、御働きとして頂く事になったから、御事柄という事になった。そんならこの事だってやはり御事柄なのである。けれども私の心は確かに乱れておるのである。そこでです。甘木の初代じゃないけれども。これを取り除かせてもらってまた新たな、材木に取り替えられなければならん、という事になると、これは粗末になってしまう訳ではないでしょうけれども。手数といゝ、物といゝ、お粗末になる事に気付かせて頂いて、咄嗟に、本当に私の信心の不行届きとして、お詫びをしっかりさせて頂いて、その日の御理解になった。だからその話をするのです。
毒きのこを頂いた、当たった、と思うたらです。お詫びをするより他にはない。これが第一の毒消しだと、私は聞いて頂いた。だからこれは、その事については、先日からお詫びばかりをしてます。これはこの事だけではありません。この御造営全般にわたって手直し手直し、こゝはこげなこつじゃないのにと、いうようなところが、出てくる事を、これはやっぱり私自身がお詫びをする以外にはないなと、思わせて頂いとります。もう今度のだからもう、もし出来上がったら、お詫びで出来るだろうと思う位です。
信心の帯がしっかり出来ておりませんと、そういう言うならばミスが出来たり、困った事になるのですから、信心の帯をしっかりして、おかげを頂かなければならん。信心の帯をしっかりせよ。私共これは、お年寄りの方だけではありません。イライラモヤモヤ腹が立つ、といったような時に、しかも本当に、お礼を申し上げねばならんような事に、イライラモヤモヤしたり腹が立つたり、しておるような時には、いよいよです、前に進むのを一遍止めて、足踏み状態になってもよいから、神様の方へ心を向けさせてもろうて、心を取り直させてもらい、しなければおかげになりません。
昨夜も私いつも夜中にこゝへ出て来てから、御祈念をさせてもらいます。夜中にまたシャワーをかかってそして、神前に出て、やすませてもらう。昨日はそれを反対にした。身体を清める事を後からにして、ここへ出て来た。どっこい御祈念が出来んです。自分の便利でしょう。もう風呂に入ってツーッと寝ろうと、こう思いよる。その方が楽なんです。それで一生懸命御祈念するけれども。頂けんから、お詫しながらさせてもらうけれども、いかん。
『そしたら楷書で松という字を頂いた。しかも木辺にてんがないところを頂いた。木辺に公と書いて松と書く。これは楷書ですよ。きちっとした信心という事です。にはね、もうこのてん一つ欠げたらもう、松の字にはならないという事です。微妙でしょう。例えば、これが、草書か行書で書いたらです。もうてんはいらん位でしょう。けれども楷書で書いたら、です。本当の事を言うたらです。楷書で書いたら、木辺に公と書いて松と読むけれども。木辺に点を一つ打つのを忘れておっても、もうそれはしら字です。松の字じゃないです。
はゝあ本当に相済みませんと言うてから、また改めて、お風呂に入らせて頂いたら、もうアッという間に通う。信心させて頂くとやっぱり、そういう精進もなされなければいけません。心掛けなんです。いわゆる信心の帯をせよという事は、そういう事なんです。』
今日は取り分けこゝに腹を立ててはならんとおっしゃるから、腹を立てるという事に、焦点を置いて聞いて頂きました。
それが腹が立たんほどしになった時には、もうあなたは、徳を受けておる時だと思うて間違いはないです。いや寧ろお礼が言えれるという事です。まあ腹を立ててはならないという事を、それではお徳につながらないという事を、昨日敬親会の方達に聞いて頂いたお話の中から聞いて頂いた訳ですけれども。お互い折角信心させて頂くのですから、もう腹を立てんですむ私。いやそういう事柄にお礼が言えれる位な、私になる精進が本気でなされなければならないと思いますね。どうぞ。